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歴史はあやふや

義務教育のころから、歴史を学んできているが、今になって、教科書が内容が変更されているのをみると、そんなあやふやな歴史だったの? みたいな気にさせてくれます。もともと、あまり歴史は正しいとも思っていないのですが、歴史について、もう少し疑いをもって考えたほうが良いと思います。例えば、日本史についても、地方には、いろいろな文献が残っており、それらを解釈すると、現在知られているような歴史ではない場合があります。つまり、この時点で、現在の歴史は、どのように解釈されて、今に至っているのかを探る必要が出てきます。なので、本来なら、教科書には、根拠となる出典文献を記載していただきたいところです。また、本来は文献だけではなく、調査している方がその地域に足を運んで、地域を調べる必要があるのですが、近代の歴史学者は、おそらくそういうことを丁寧にしている方は、少ないものと思われます。そのくせ、自分と意見が違うと、批判することしかしないのです。相手の言い分がなぜそうなるのか精査することもしないのです。従って、伝わる歴史に関しては、完全に正確だとは言えないので、あくまで、昔は、そうだったのでは程度の解釈でよいと思います。常に疑いの目は必要です。

歴史は権力者が残したもの

歴史を解釈する文献は、ほとんどがある程度の権力をもったものが、書き残したものです。また、それらはある程度は真実であるかもしれませんが、自分たちに都合の悪い真実は伝えない場合もあります。同年代に起きた、出来事に関して書かれた、いくつかの文献は、どれも解釈が異なる内容の場合もあり、このあたりも、筆記者の認識の差になるようで、大きく、他の文献の内容と衝突する場合は、いずれかに帰着するというよりは、どれも、仮説として扱うべきであるとも思います。そもそも、歴史は、その年代を実際に知らない現代人が探っているだけにすぎず、全ては、文献による解釈です。つまり、その時代を生で見ていないだけに、ある一つのことだけに、執着することは本来あるべき姿ではないと思います。こればかりは、タイムマシンで見てこない限り限りなく正確に解釈することは不可能です。

認識の違いの影響

例えば、同じ空間で、20人が5分程度の間に、伝言ゲームをして、耳元で、ささやくように「山中さんからの伝言です。おはようございます。」などの言葉を順番に伝えていくと、最後の人物にたどり着いたころには、「山中さん」から「中山さん」になっていたりなど、こんなに狭い空間で短時間にあるにもかかわず、解釈がかわっており、正確に伝わらないものです。つまり、これを歴史に置き換えてみると、解釈が異なるだけでも、それらを保存しようとしたときに、自己的な要素を追加する可能性は十分にあります。例えば、火事で、一部の文献が焼けてしまったとなると、その部分を修復するために、自分の記憶をたどり、それらをプラスして修復する場合は、筆記者の認識がプラスされていることは言うまでもありません。また、文献の劣化より更新すめために、新たに書き写すこともあります。この場合も、原文に忠実に再現されているとは限りません。また、その際に、権力者の都合などさまざまな要素が複合すると、歴史が改ざんされたりしているおそれもあります。歴史以外にも、宗教の世界では、これらの認識の違いがおもしろいほど明確に残されており、歴史と合わせて解釈すると、時の権力者にあわせて、都合のよいように大衆に広められたのがよく分かります。キリスト教であれば、イエスの教えが、弟子によって書かれた福音書が存在しますが、それ自体、弟子の解釈もバラバラで、長い時間、それにかかわる人々の解釈で原型とはことなる解釈で伝えられていることは間違いありません。でなければ、プロテスタントやカトリック・・・派生宗教に分岐するはずがありません。これは認識の差です。

認識の違いを理解する必要がある

現代において、国同士の対立や、宗教同士の対立について、互いの認識の違いが根底である可能性があることを理解する必要があります。つまり、実は、原点は、同じで、その頃であれば、双方理解できたであろう問題も、古ければ古いほど、代々受け継がれていく知識への認識の差は広がりをみせており、修復不能な状態になっているように思います。要は、今だけを見ていても永遠に解決しないのです。また、過去に戻って考えを深めるほど人類は賢いとは思えません。そこで、認識に関する教育が現代人に必要になってきているのではないかと考えます。